故蝋山 高岡短大学長の講演

藻谷浩介氏の講演

まちづくり フォーラム

交通ネットワーク委員会提言

万葉線コラム

鉄ちゃん王国 連載

LRTで街を変える

富山経済同友会
交通ネットワーク委員会主催講演会
演題 「地域交通と街づくり」 講師 蝋山 昌一 氏(高岡短期大学学長)

日時 平成12年12月1日(金) 10:00〜11:30 場所 名鉄トヤマホテル4階「瑞雲」


 今日、私に与えられたタイトルは「地域交通と街づくり」です。だが、私の専門は交通経済学ではなく、交通経済学とはだいぶん距離がある金融という分野です。そういう点で、なぜ私がこういう問題を話さなければいけないのかと逃げ回ったのですが、粘りの松原吉隆氏からどうしても逃げられませんで、こういうお話をさせていただくことになりました。私が万葉線の問題に関与したから、何か言えるだろうということだと思います。したがって、今日の私のお話は、交通問題を専門にするエコノミストとしての視点というよりも、むしろごく普通の生活者として、富山で2年と8か月過ぎましたが、その間の経験をベースにして、やや経済学を勉強した者らしく少し整理をしてみるというところです。ですから、専門家から言わせれば、大変甘い議論を申し上げるかもしれません。ただ救いは、先程のご紹介にもあったように、私は「旅の人」であることです。どうも「旅の人」というイメージは、人によって受け止め方が違うようですが、やくざで言えば一宿一飯の義理で、その義理を果たすために討ち死にするということだろうと思います。ですから、相当勝手なことを言ってもかまわないという雰囲気があるようにも察せられますので、少々気が付いたことを私なりに申し上げたいと思います。


■ 富山の経済立地

 まず、交通という問題を考えてみると、それは立地の問題と裏腹の関係にあるわけです。我々の経済活動は、場所というものの上で行われるわけですから、どういう場所でどういう活動が行われているか。その場所と場所を結ぶ、いわば人や資源の移動手段として交通というものが考えられます。ですから、交通の問題を考える時には、立地という問題をどうしても考えなければいけないわけです。
まず、富山の経済的な観点から見た立地という問題を考えてみたいと思います。その上で交通の問題に入りたいと思います。私の印象としては、富山の経済立地は極めて点として散在しているという印象を持ちます。逆に言えば、集積という点ではどうも未成熟ではないだろうか。これからの大きな課題は、そうした散在する点をいかに面として形成するかということになります。ひとつは、これから新しい経済活動を誘致する場合に、まとめて誘致しようということで、工場団地やオフィスパークなどの仕掛けを作って誘致する。あるいは、空間的には散在しているかもしれないけれども、それを時間的に考えればうまく繋げるように交通網を整備するという発想で面を形成し、集積を実現させていこうということになるだろうと思います。しかし、そういう点から富山を考えた場合、私には富山はまだ成熟、完成していないように思われます。  

 先程ご紹介された私の略歴でも想像されるように、私は、教育は東京周辺の関東で受けましたが、その教育の成果を職業として活かす場所としては関西を選び、関東で29年、関西で28年を過ごしました。ですから、私は、北陸をほとんど知らなかったわけです。そういう観点で、富山をいつ頃意識したかというと、「富山・高岡100万都市建設構想」、あるいは、さまざまな海岸線に工場地帯を立地していく中で、日本海側の有力な集積の場所として富山が国の計画の中で重要視されました。そうしたことを通じて、富山の経済が少し私の頭の中に入ったという記憶があります。  その後、実際に高岡に住むようになり、かつての「100万都市建設構想」の中核と言われた海岸線沿いを自転車で走ってみると、一体その面影はどこにあるのか。確かに工場は並んでいますが、私の見るところは、極めて惨たんたる高度成長時代後期の政策のいわば残骸があるだけです。もちろん、工場が活動しているのは分かりますが、面としては惨たんたる成果であることを実際に目で見てきました。そのことを下河辺淳氏に、「もう少し自転車に乗って地を這うようにして現場を、自分でやった政策の結果を見たらどうか」と言ったら、いやな顔をされました。  

 さらに、面のあり方を考えた場合、どうも最近は面自体の性質が変わっているように思えます。かつては物を作る、生産をするという点での効率性を高めるために面を指向しました。集積の利益は生産の面から捉えられたわけですが、私は、最近はそういうことでは不十分ではないかと考えています。もちろん、そういう側面が依然として大切であることは否定しませんが、もう少し生活をも巻き込んだ、面の中で働くだけでなく、生きるという、生活を巻き込んだ総合的な意味での面の効率性を考えなければいけないのではないでしょうか。こういう新しい観点をも含めて考えて、富山の経済活動を面として捉えると、未成熟さが一層目に付くのではないかと思います。 典型的には、私は大学というものを念頭において考えています。自分が働いているから良く分かるのですが、大変もったいないと思うのです。どういうことかと言いますと、高岡という17万5,000人の中都市に2つも大学があります。しかし、立地は北と南に分かれています。私の奉職している高岡短期大学と高岡法科大学です。2つの大学の学生数を合計すると毎年1,000名を超える学生がいるはずですが、一体どこにいるのか、高岡の街に学生の姿は、高校生は目に付きますが、大学生はほとんど見えません。

富山大学は総合大学として非常に大きな大学であり、北陸有数の大学です。後で申し上げますにように、公共交通手段で容易にアクセスできる国立大学はどういうわけかだんだんなくなりました。北から考えてみても、北大、東大、京大ぐらいです。私の記憶違いもあるかもしれませんが、それ以外の国立の大学はほとんど街の中から放り出されてしまっています。それは工場等立地法で、都市の中に工場などを作ってはいけないという、この「等」の中に大学が入っていて、街の中から大学をたたき出すことになったのです。私の良く知っている大阪を見ても、大阪の環状線の中には4年制の大学は1つしかありません。小さな歯科大学があるだけです。  

 しかし、大きな大学になると何千という学生・教職員が活動していて、その人達のもたらす経済的な効果は、とても計り知れないところがあります。1学年200人しかいない、トータルで考えても学生・教職員合わせて600人しかいない、小さな高岡短期大学でも、毎月1人が1万円の金額をいろいろな形で支出すれば、相当大きな産業として大学は位置付けられるわけです。しかし、そういう発想がないので、大学関係者の学生・教職員が何か物を購入する時、金沢まで自動車を走らせることが当たり前になってしまっています。これでは適切な立地とはいえません。これからは、いわば生活を巻き込んだ形で、総合的にうまく循環するように、それぞれの点をどのようにまとめていくかを、真剣に考えなければいけない。そういう時期に来ているのではないだろうかと思います。

 このように考えると、企業に「来て下さい」と企業誘致をすると同時に、人にも「来て下さい」という「誘人」をしなければ、富山のような経済は今後うまくいかないのではないかと思います。短期間訪問する人を対象にする「誘人」活動は、おそらくツーリズム(観光)ということになるでしょうが、今後ある程度の期間生活してもらう方々に向けては、生活の魅力を高めることも同時に考える必要があるのです。生産指向のみでは企業の誘致、組織の誘致は難しいのではないかと思います。その点で、交通は大変大事だと思います。そういう生活を巻き込んだ総合的な面の形成を考えた時に、交通というのは重要なポイントになるでしょう。

■ 富山の交通

 しかし、富山の交通を考えてみたとき、きちんとした明確な位置付けを持って交通が考えられているとはどうも思えません。ある種、時の流れに乗って、時の流れを追いかけることで終始しているのではないか。モータリゼーション、いわゆる自動車、特に自家用車の普及を当然のごとく受け止めて道路網を整備する。そして、道路の整備がさらに自家用車の魅力を高めて、自家用車の普及率を高める。この限りにおいては好循環が発生します。私は富山県の主要な道路を全部走ったわけではありません。私の移動手段は自転車ですので、まだ富山県の東の方まで自転車で行ったことがありません。射水平野を越えての東側は、せいぜい富山市周辺までで止まっているのですが、道路網は大変立派だと思います。特に、2万5,000分の1の地図で農道を探して走ると大変快適です。ほとんど自動車がいない広い道路がずっと走っています。ですから、おそらく地理を良く知っている人にとってみれば、自家用車は大変便利だと思います。一家に2台、3台と自家用車が普及するのは当然であって、自家用車の普及率日本一も私はそれなりに納得できます。極めて合理的な人々の選択の結果だろうと思います。しかし、それでいつまで持つかと考えると、私はやや危ないと危惧するわけです。
  確かに人の移動という手段だけで考えてみれば、そして、視点をそれほど遠く先まで考えずに、現在あるいは近い将来のことだけを考えてみれば、道路が整備され、自家用車で道路の上を動くことは、それはそれとして私は合理的だと思います。しかし、もう少し長い目で考えた時に、その道路と自家用車の好循環は、実は他の交通手段を壊滅的な状況にさせるという効果を持っているのです。とりわけ公共交通手段の利用が減少しているわけで、それに拍車をかける少子化という状況も顕著です。その結果、JR、路面電車、バスの現状は惨たんたるものになっています。


■ 公共交通の存在意義:その役割・機能
 万葉線の問題で使った資料の1つを皆さん方に配付させていただいています。これは高岡を例にしたものです。はじめに「平成元年を100とした公共交通機関別利用状況の変化」というグラフがあることにお気付きだと思います。北陸本線、城端線、氷見線、万葉線、路線バスがあって、平成元年を100としてこの12年の間に、北陸本線は86に、城端線は78に、氷見線は74に、万葉線は71に、路線バスは44と、路線バスに至っては半減以上、利用者は減少しています。こうした状態を公共交通機関の惨たんたる状態といって言い過ぎではないと思います。  

 ですから放っておけば、公共交通は無くなり、道路と自家用車に富山県の交通は依存することになるだろうと思います。それでよろしいということであれば、それはそれで1つの立場だろうと思います。おそらく富山で生活をしている、富山で生産している、富山で生きている現在の人の観点からいえば、道路と自家用車の共鳴的な活躍の幅の広がりはそれはそれとして合理的なわけです。しかし、そうなった時にどういう姿を考えるかをもう少し全国的な観点で、外側から見たときに、富山のプレゼンスは極めて低下することになるだろうと思います。

 

 いわば富山は通過する場所である。何か特別に目的があればともかく、通過する場所である。では、特別に目的があるのは何か。1つは、ツーリズムで観光に行こう。ところが、新幹線が出来て駅に降りてみたら何もない。後は、タクシーか団体旅行でバスを利用するしかない。あるいは、飛行場を降りても同じこと。さらに、ある程度の長い期間にわたり生活をする者にとってみて、企業から命じられて富山の工場なり、支社なりに勤務を命じられて大都会から移っていく。自分は運転ができる。しかし、忙しい。子どもの学校の送り迎えをどうするか。自動車を買わなければいけない。大変だ。あまり魅力ない。それでは、単身で赴任しようか。こういう形になり、結局、面として家庭の生活までをも巻き込んだ富山にはならないでしょう。いろいろな形で公共交通を軽視する時の流れにそのまま乗っていただけでは、実はその時の流れ自体を衰えさせてしまうのではないかと思います。同時に、せっかくこの素晴らしい富山県の魅力が、それでは死んでしまうという考え方もできるかと思います。公共交通こそ、私は富山県の魅力を支える縁の下の力持ちであると思われてなりません。  

 実は今まで、自家用車あるいは交通というものは単なる移動手段であると前提してお話させていただきました。しかし、考えてみると、自家用車は単なる移動手段ではありません。高岡や富山のJRの駅あるいは富山空港に降りて見ると、アメリカなどと違うところは、レンタカーの広告があまり見えないのです。その代わり、サラ金の広告はたくさんあります。つまり、空港やJRの駅を降りて、レンタカーを借りて富山県を楽しもう、ビジネスをしようという人はそれほど多くないのではないか。日本人は、いわば自家用車とレンタカーを区別しているのです。言い換えれば、自家用車には単なる移動手段として以上の機能を持たせているように思われます。  


同じことは公共交通についても言えるはずです。公共交通も単なる移動手段ではありません。自家用車はレンタカーと違って別の、それに加えて付加的なさまざまな価値を持っています。自分のお尻にぴたっと合うシートというところから始めて、中の空気清浄剤の匂いに至るまで、さまざまな個人に合った工夫が自家用車になされています。それと同じように、公共交通にはその地域に合った、その地域の個性を反映するようなある種の匂いなり、ある種の雰囲気を持っているものではないかと思います。それを潰してしまうのは非常にもったいないと思わざるを得ません。  

 私はそういう点で、万葉線の存在はまさに高岡らしさの象徴であると考えます。高岡らしさを具現化しているものであって、それを潰して良いのでしょうか。万葉線がなくなった高岡駅、高岡の街を考えてみると、外から見た時には、どこにでもある、ごく普通の田舎都市に見えてしまうように思われてならないのです。「そんな意見は文学的感傷であって、お前は芸術系を擁する短大に勤めているからそんなことを言うのだ。もう少し冷静に計算すれば、そんな判断は生まれないはずだ」と言われるかもしれませんが、私はどうもそれだけでは面白くないと思います。いろいろと公共交通の存在意義が言われますが、私個人として一番重視しているのは、難しく言えば都市の個性の表現手段であるということになりますが、高岡らしさの象徴としての万葉線なのです。それぞれの公共交通に、私はそのような匂いなり、雰囲気なり、風景というものがあるのではないかと思います。ですから、これは私だけの話ではありません。

 

 時間がある時に見る番組に、「開運!なんでも鑑定団」という土曜日の午後に放映されているTV番組があります。氷見のある旧家の方が加賀藩の時代の長恨歌を絵にした巻物を鑑定団に提出し、高い評価を受けました。あるとき番組がその氷見のお宅を訪問する記録を映しました。まず出てくるのは、万葉線が走っている高岡の街並みが紹介され、そこから次に氷見の旧家の門構えが映されるという画面構成になっていました。万葉線と氷見は繋がっていないのですが、おそらく車で来た撮影隊の人たちが氷見に行くために高岡に入った時、万葉線の走っている光景を見て「これはテレビの画面になる」と考えたのでしょう。氷見・高岡という呉西地方のある種のシンボルとして、この絵をテレビ画面に上映したのではないかと思います。  

 住んでいる人にとってみれば、あまりそういう意識はないのかもしれません。「こんなものはなくたって何とかなる」と、路面電車が走っている姿があまりにも当たり前になってしまっていて、その持つ意味、価値、雰囲気の持つ重要性に気が付かないのかもしれません。しかし、島田紳助の「なんでも鑑定団」という番組ひとつからでも分かるように、私は高岡にとって路面電車は素晴らしい、ある種の高岡らしさの象徴であって、何がそれに代替できるかというと、他にはないのではないかと思います。そういうものをなくして良いのかということです。 ですから逆に言えば、そういうものがあることを前提にして、それが活かされるような街づくりを考える。街づくりがまずあって、それから公共交通を考えるのではなく、歴史のある街なのですから、公共交通を前提にして、それを活かすような形での街づくりを考えなければいけないのではないかと思います。


■ 市場経済のもとで公共交通は生き残れるか

 こういう発想で考えると、実は基本的な問題に突き当たります。路面電車なり、公共交通は、ただ放っておいたのでは生き残れないのです。今申し上げたような高岡らしさのシンボルとして、まだ他にも環境に優しい、あるいは新湊と高岡の間を結ぶ街の紐帯、絆の役割などもあります。そのような目に見えない、気付かれないかもしれない、ある種のメリットを地域全体に及ぼすような活動、それがまさに公共財であり、公共的な便益ということになります。
 このよう公共的な便益をマーケット、市場経済の中で値段に反映させることは大変難しいわけです。すなわち、普通の切符の値段には、移動手段としての他に、プラスαとしてその人の感じる公共交通手段の無形のメリットが反映されるに過ぎないのであって、地域全体に与えるメリットは運賃価格、切符の値段には反映されないのです。しかし、経営はそうした切符の売り上げに依存してやっていかなければならないので、便益と費用の関係から言えば、当然大きな費用がかかり過ぎ、収入が費用に追い付かないことになります。このような地域へのメリット、地域公共財としての公共交通を維持するためには、どうしても地域の意思を代弁する地域の財政が、一部の費用を負担することにならざるを得ません。これは市場経済の鉄則です。 市場経済は万能ではありません。経済活動の私的な利益は価格に反映させることができます。そして、価格の持つそうした意味には大変重要なものがあります。追い付かない、便益の無いものは低い値段が付くし、売れません。欠損を出します。ですから、市場からの退場を命じられます。しかし、それはあくまでも私的な財、私的な便益の範囲に止まります。公共的な便益にもたらす活動については、そういう原則を単純に当てはめてはならないのです。そういう点では、ある程度の財政の負担が、私は必要だと思います。



■ 私企業的経営の徹底は必須

 しかし、私は、財政が何でもやれば良いと申し上げているわけではありません。そういう点では、公共投資の見直しは絶えず行われなければいけません。本当に地域全体に公共的な便益を与えているかどうかのチェックはしなければいけないわけです。制度的に公共投資とみなしている事業をすべて公共投資だから財政でやっていこうという形では、野放図な財政になり、財政のタレ流しと非難されざるを得ません。ですから、絶えず厳密な意味での公共性の見直しは必要です。それと同時に、財政の負担との間にはある種の緊張関係があって然るべきです。 万葉線に関して、あるいは公共交通について言うならば、私はそれなりの公共的なメリットが十分にある存在だと認識しています。したがって、一方ではそのメリットを評価する財政の負担を要請しながら、またもう一方で、極めて厳格な私企業的経営が必要だということも事実だろうと思います。財政に任せっぱなしでそうした地域的な便益の供給を行うと、それはいわゆる「親方日の丸経営」となって、極めて非効率的なものにならざるを得ません。お金の面で財政資金を投じるとなると、むしろ経営面では、簡単には潰されないということになりますから、普通の私企業以上に私企業的な経営が実践されなければならないと、私は思います。



■ これまでの万葉線は悪しきケースの象徴
 財政からの援助を受けながら、私企業として徹底的な私企業的経営をする。そうした形で、地域の公共的な便益の効率的な提供を行う。このような観点で考えてみたとき、私はこれまでの万葉線は落第だったと思います。ある程度の財政的資金は投じられましたが、万葉線の運営は大変不十分なものでした。県と高岡・新湊両市はこの万葉線の存廃問題、すなわちもう路面電車は止めて、バスに転換するという渇チ越能鉄道の提案を受け入れるかどうかを決定する際に、あるシンクタンクにこれからの万葉線についての経営予測を依頼しました。その調査報告書に提案されている、利用者増加策と経営合理化策のリストがありますので、それを資料として配付しました。これをご覧になると、おそらく富山経済同友会にご参加の私企業経営に徹してこられた皆さん方から言えば、「えっ、こんなこともやってこなかったの」と驚かれると思います。

 例えば利便性の向上に「スピードアップ」という項目があります。今の新湊と高岡の間の所要時間は8分程度短縮できるそうです。これは「こうしなさい」という提案をしているわけですが、逆に言うと、こういうことが今までされてこなかったというのが私にとっては非常に不思議なのです。やはりこういう点を十分に反省し、踏まえて、万葉線の問題を考えなければならないのではないかと思います。ですから、懇談会の意見の集約という形で、そのような趣旨の文章を書いて、新湊・高岡両市長に提出しました。要するに、万葉線の問題は、新聞で大きく報道されるような鉄軌道施設をいくらで加越能鉄道から両市が買い取るか、あるいは第3セクターを作るか作らないかという話以上に、誰がどういう経営をするかが一番重要な問題なのです。そこのところを乗り越えることができるかできないかが最大の問題だと私は考えています。

 この調査報告書で提案されているような利用者増加策なり、経営合理化策は、本来であればもっと早くからやって然るべきでした。しかし、それを怠ってきたのです。それはなぜかというと、今はやりの言葉でいえば、ガバナンスのメカニズムがうまく機能してこなかったということです。今後の問題として、万葉線を第3セクター方式で運営するとすれば、そういうガバナンスのメカニズムをきちんと持った第3セクターでなければなりません。

 普通の第3セクターは、私企業以上にガバナンスのメカニズムがめちゃめちゃです。今日の日本経済新聞をご覧になっても、第3セクターの全国的な問題が指摘されていました。関西新空港なり、宮崎のシーガイアなり、大規模プロジェクトの問題点がまとめて指摘された記事が載っていました。これからの万葉線を普通のタイプの第3セクターに任せたのでは、おそらくそういうガバナンスのメカニズムがきちんとしないので、そうしたもののリストの中の1つに、「万葉線」の名前が出るのが落ちではないかと思います。

 逆に、万葉線を地域の公共的な便益のために残すとするならば、私は残して欲しいと思うのですが、一番乗り越えなければいけないのはお金の問題ではありません。今後の経営をうまく行う最大限の努力を発揮して、お金の面では財政の援助を受けながら、新しい万葉線会社をうまく運営できるかどうか、具体的には調査報告書で提案されているような、当たり前の利用者増加策なり、経営合理化策を貫徹できる経営ができるかどうかだと思います。 おそらく万葉線の問題は、ただ単に万葉線にとどまらず、高岡と新湊の間の路面電車に止まらず、おそらく富山の、あるいは日本の公共交通全体の抱える問題の象徴と言えるのではないかと思います。しかし、小さな象徴です。したがって、このような小さなケースをうまく乗り越えることができれば、高岡はある種の日本のモデルになるわけです。あるいは、富山は1つのモデルを提起したことになるわけで、今後の日本の公共交通問題に与える影響は大変大きいものがあるだろうと思います。それぐらいの心意気が少なくともなければいけないでしょう。


■ 富山での公共交通再生のために何をすべきか
 万葉線の問題を議論したとき、企業経営者の方から、「万葉線のように12年間で39%も利用者が落ち込んでしまっているところの経営には夢がない。だから、何か夢を与えなければいけない。万葉線を新高岡まで延長したり、千保川を越えて金屋町の方まで延伸するなどの拡張・成長政策をとるような発想をあらかじめ経営者に委ねなければ、夢がないからうまくいくはずがない」というご批判を受けました。しかし、これは高度成長時代の発想だろうと思います。大きくなることにある種の夢があるというのには限界があるのではないか。もちろん、ある種のビジネスには大きくなる余地があると思いますが、こと公共交通問題に関して言うならば、そうした大きくなるという夢はないと思います。しかし、新しいことにチャレンジするという夢はあります。第3セクターとしてうまくいかないというのは当たり前ですが、全国に先駆けてそれに成功する第3セクターを作ることがある種の夢となるのではないかと思います。

 ここでうまくいかなかったら、先程申し上げたように、高岡の地域の公共交通は全滅します。そして、自家用車と道路にすべての交通問題を基本的に任せるということになります。それでは高岡・新湊は普通の街になってしまうでしょう。このことはおそらく富山についても言えるのではないでしょうか。富山の方がより良い状況で、万葉線より深刻ではないかもしれません。現在の富山地鉄が走らせている路面電車は、私も富山に来た時には買い物などには利用させていただいていますが、少なくとも万葉線よりは乗り心地も良いし、便利です。しかし、経営はそれほど安心して良い状況ではないと伺っています。ある種の工夫が必要でしょう。

 その工夫とは何か。公共交通にはその地域を表す匂いがあり、雰囲気があり、個性があると申し上げました。やはりそれをきちんと活用することが基本になるだろうと思います。ただ単に、富山駅前から西町へ人が移動する手段だと考えたのでは、バスと同じではないかということになります。路面電車には、それ固有の匂いがあるのです。その匂いを嗅いでもらわなければいけないし、嗅ぐ習慣を付けなければいけないと思います。

 私が具体的に万葉線について、また富山地鉄についても提案したいことは、例えば教育の場としてこれを利用することです。学校の行事で例えば美術館に行く時に、富山市にある素晴らしい美術館は富山地鉄の電車の停留場とはやや距離がありますが、歩いて歩けないことはありません。バスに乗らずに、富山地鉄の路面電車に乗って見学に行くことを年に一度義務付ける。教育委員会はそういうことを奨励して良いのではないでしょうか。  万葉線の場合であれば、新湊の小学生や中学生が瑞龍寺に見学に行くことをどれくらいしているかは知りませんが、私はもっともっと地元を知らなくてはいけないと思います。瑞龍寺に新湊の小学生・中学生が見学する時に万葉線を使い、高岡駅から地下道をくぐって瑞龍寺まで歩きます。これは学校の先生にとっては大変かもしれません。もしもその間に事故があったらどうしようかと心配すると、やはり校門の前までバスが横付けになって、瑞龍寺に行くとしても瑞龍寺の山門の前までバスに乗っていく方が先生にとっては楽かもしれません。子どもが仲間だけでバスの中で騒いでも誰も文句を言いませんから、子どもにとっても楽かもしれません。しかし、教育は楽なことの連続ではすまされないのではないかと思います。

 

 この間、ある富山のテレビ局が、高等学校の先生方が北陸本線に乗って、高校生の車内でのマナーを矯正している画面が出てきました。これは私よりも一時代前の先輩方が歓楽街で制服を着て歩いていると補導されるという姿の現代版だと受け止めてぞっとしました。確かに列車の中での若い人のマナーは悪い。しかし、それは当然です。長い間電車に乗って学校に行くという経験をした人が少ないのですから、あるいは、他の人も乗ってくる公共交通機関を利用して見学や遠足に行くことはめったにしないのですから、自家用車の中で好きな物を食べて、だらしなく足を前に突き出して移動するのと同じつもりで列車の中で振舞うのは当然です。それが問題だと考えるならば、やはり小さなときから公共交通に慣れ親しむことをしなくてはいけないのです。要するに、公共的な交通手段にはそうした教育面、啓蒙面での機能も持っています。社会生活はいかにあるべきかということを教える役割も持っています。そういう役割をもっと活かすようにしたらいかがかという、これは1つの具体的な例です。

 あるいは、万葉線のような公共交通機関に低床電車を導入することができたら、お年寄りに優しいということになります。しかし、高齢者が利用するさまざまな施設が、万葉線なり、富山の地鉄沿いに存在しなければ、これも意味がありません。高齢者に優しいと言ってもせいぜいショッピングや、あるいは都心にたまに出かける時に利用されるに過ぎません。しかし、考えるといろいろなところに高齢者のための施設は存在しています。私の大学の隣にも「万葉センター」という高齢者のため施設があります。私もエリジブルな(資格がある)のですが、お風呂に入って歓談できる、ちょっとしたスポーツもできる施設が大学のすぐ隣にあります。安くて比較的施設が良いということで、新湊からも来る方がおられるそうです。もちろん高岡市民で60歳を超えているとタダですので、私の場合はタダでお風呂に入れます。しかし、皆さんは自家用車で来られます。そういう施設が万葉線沿いには少ないのです。

 さらに、バスの利用は表で見るように40%台に落ちてしまっています。この12年間で50%を超える減少率を示したバス路線は、そういうことを一切考えないで昔どおりの路線を走っています。最近、コミュニティバスが富山を始めずいぶん使われるようになりましたが、まだまだJR富山駅が中心、あるいは総曲輪と中央通りということです。高岡でも、高岡駅を中心としたループ状の路線の上をコミュニティバスが走っているだけです。民間の加越能バスは、依然として古い人の動きをなぞったバス路線を走らせているに過ぎません。これでよいのでしょうか。例えば、米島口という万葉線の駅から高岡短期大学と昔の高岡の城下町で城があった守護町までの間の二上山沿いに、ある種のループ状にバスを走らせます。そこには電車とバスの連携のチケットを出して、従来と同じ値段で乗れるようにします。例えば、米島口まで220円で、プラス100円をオンすれば連続するバスに乗れるようにします。電車はパンクチュアル(遅れない)ですから、バスが必ず米島口に定時に待っていてそちら方面に、氷見でも伏木でも良いのですが、出発するということになれば、万葉線の乗客も増えるでしょう。また、高岡短大の学生のみならず、万葉センターを利用する高齢者にとっても高齢者のための施設が利用できるようになるのではないでしょうか。このような形で点を面化する、点を線で、万葉線あるいはバスなどの公共交通機関で結んで面化していくというネットワークの見直しが必要だと思います。 残念ながら、富山市でもあるいは高岡市でも、公共交通網はすべて駅を中心にして作られています。何本ものバス路線が万葉線と平行して走っています。私にはその意味が良く分からないし、比較的相対的に人の集まるようなやや新しい組織も、公共交通網を使ってはアクセスできない形で、自家用車の利用を前提にして作られています。今後も主力は相変わらず自家用車でしょう。しかし、やはり公共交通網でアクセスができるように、あらゆる交通網をもう一度見直す。その中心は路面電車であり、私鉄、要するに鉄軌道手段であり、それとバスをうまく組み合わせることが必要なのではないか。そういうことをいろいろ考えると、私は、将来は真っ暗ではなくて少しはほのかな明かりが、富山の公共交通網についてあるのではないだろうかと思います。


■ 富山らしさをもう一度認識すべき
 そろそろ雪が降って、スキーのシーズンになります。東京や大阪のスキー仲間に「富山県のスキー場に行ったことがあるか」と聞くと、ほとんどいません。相当なスキーフリーク(夢中な人)でも昔の極楽坂を少し知っているだけです。あるいは、春に立山に来たとか、その程度でほとんど知られていません。なぜ富山まで来ないのかというと、途中にいろいろなスキー場があるからです。例えば東急が開発したスキージャム勝山が福井県の勝山市の奥にあります。そこはスキー場というよりスノーボード場になっていますが、ここは関西から夜行、ないしは早朝から日帰りできるスキー場の混雑率ナンバーワンです。しかし、勝山まで行く時間と、富山まで来る時間を考えてみると、それほど差がありません。しかも、帰りの混雑を考えてみると、むしろ富山の方が近いとも言えます。志賀高原や白馬は人気がありますが、帰りに10時間もかかるというのが当たり前です。富山は北陸道を使えばもっと早いわけですが、要するにスキー場として魅力がないのです。 JR列車を使って降りてもバスがありません。日曜の早朝にだけ高岡駅前や富山駅前から牛岳やイオックスアローザなどへのバスが出ていますが、基本的に地元の人を念頭に置いているだけです。冬に立山駅で降りて「粟巣野に」と言ったら、きょとんとした顔をされました。また、私の近くの万葉線の駅で、夫婦2人でスキーを担いで電車を待っていたら、後から、何人もの人に「すごく珍しい人がいる。スキーを担いで電車を待っている。誰と思ったら学長だった」とからかわれました。

 しかし、私は公共交通機関を利用してスキーに行くことがなぜおかしいのかさっぱりわけが分かりません。平スキー場に行った時、バスがありませんから、城端からタクシーに乗りました。タクシーの運転手に、スキーが長すぎて入らないと言われ、仕様がなく窓を開けてもらって走りました。タクシーも公共交通機関なのですが、ルーフにスキーのラックが付いていないのです。そういう例を考えてみると、ともかく自家用車でスキーに行く、自家用車で山登りに行くことが当たり前になってきてしまって、それである種需要を拡大しているようですが、実は需要を減らしてしまっているという面白い結果になっているのです。ですから、富山のそうしたことは抜本的に見直しをしていかなければならないと思います。 昔、私が山登りをやっていたころに、富山地鉄を何回か利用して今の立山駅まで行きましたが、当時と比べてみると、これだけの進歩があったにもかかわらず、富山地鉄は、全く進歩がない状況になっています。時間のうえでも1時間、昔も1時間だったと思います。駅を降りて、立山の駅舎は少しきれいになりましたが、他はほとんど変わりません。また、駅を降りて富山を訪ねて来た者にとって、何か富山らしい楽しみをと思うと、なかなか見つかりません。山から降りてきて、富山は面白くない街だったという印象を持っていますが、これは公共交通機関を利用する限りにおいてそうなのです。

 しかし、本当に考えてみると、総曲輪の周りでも、少し中に入った桜木町でも、あるいは最近では掛尾の辺りでも、ずいぶん富山らしい面白いところがたくさんあります。そういうスポットの存在は外から来た者にとっては、いかにグルメ雑誌やレジャー雑誌が豊富でもそうそう簡単には見つかりません。やはり公共交通が主軸になって、そうした情報伝達の機能を持たなければいけないと思います。


これからお魚がおいしくなります。スキーから帰ると、お魚で一杯が恋しくなります。高岡の駅を降りてお寿司を食べたい。あるいは、居酒屋で一杯飲みたい。どういうところに行ったら良いでしょうか。駅の中に観光案内所があるので伺ったとします。そうすると、「こういう店があります」と高岡のことは教えてくれます。立派な地図もタダで手に入れることができます。しかし、万葉線に乗れば新湊にもたくさん寿司屋がありますが、「この駅で降りればこういう寿司屋がありますよ」という新湊寿司マップは、残念ながら高岡では入手できません。

 要するに、路面電車の万葉線がそうした2つの市を繋ぐと言いながら、そうした情報提供の役割を果たしていないわけです。電車に乗っても、新興宗教の広告はありますが、寿司屋の広告はありません。公共交通機関の本来持っている多面的な機能をもっとフルに活用しなければ、利用者が少なくなるのは当たり前です。それをモータリゼーションの影響だ、少子化の影響だというのは、経営の失敗を許すための弁解にしか過ぎないのではないでしょうか。

 さらに大事なことは、そういうまずい経営を矯正する力、正しく直す力が周囲から与えられなかったことです。株式会社では、株主がそうした声を持つことが期待されています。加越能鉄道も株式会社ですから、株主の声に耳を傾けなければいけなかったはずです。しかし、大株主は富山地方鉄道です。したがって、「同じ穴の・・」と言ってはいけませんが、声はあったとしても聞こえてこないでしょうし、おそらく声が出なかったのではないでしょうか。さらに大株主として、これは声を大にして申し上げたいのですが、県が登場していたのですが、県は株主としての声を経営に反映させなかったのです。私は、これは県政の失敗だったと思います。市は補助金を出していましたので、補助金を出す立場としてものを言えたかもしれませんが、どうしても受け身にならざるを得ませんでした。


■ 万葉線の再生を:試金石
 今度の第3セクターの万葉線運営会社は、ボイスを発する株主に出資をお願いしなければいけないと思います。そういう点で奉加帳による出資は良くありません。奉加帳を回してもお金が集まらないから良くないのではなくて、奉加帳方式で出資者を募ったのでは声が出てこないのです。株主にガバナンスのメカニズムを期待できないわけです。そういう点で、市民出資をお願いすることが大事ではないでしょうか。一番大事な点は、そうした公共交通の担い手として、新しいことにチャレンジできる、公共交通の多面的な機能を生かす経営ができる経営者を探すことです。そして、それがうまくいかなかった時に声を発する株主を探してくることです。出資の問題や資産譲渡の価格をいくらにするかなど、ごく普通にジャーナリズムが大問題だとすることはそれほど問題ではなく、今申し上げたような点がもっと大きな問題だと思います。ここのところを乗り越えられなければ、私は、万葉線は止めるべきだとあえて申し上げたいと思います。 さらに、なぜこのように万葉線にこだわるかというと、実は万葉線に限らず、公共的な観点から言えば必要不可欠と思われるこの地域の公共交通機関が、従来からの担い手を変える傾向にあるからです。すなわちJRの民営化、特に北陸新幹線が完成した時には、おそらく城端線や氷見線を民営化しようという声が出てくるでしょう。あるいは、そうならないことを祈りますが、富山地方鉄道ももっと公共的な組織に切り換えなければ、とても民ではやっていけないという逆の動きも出てくるかもしれません。鉄軌道の交通は、今、一番苦しい時期に差しかかっています。その時に、「もう良いですよ。適当にやって鉄軌道をなくしても、これは仕様がないですね」と割り切れるでしょうか。私はそのよう割り切ることはできないと思います。JR城端線や氷見線の存在意義を考えると万葉線どころではありません。おそらく富山地鉄についても、立山線なり、宇奈月線にしても同じことではないでしょうか。

 

しかし、民営化した時にどうするのか、あるいは逆に、民営鉄道が準公営化されたときにどうするのかというテストケースが何もありません。私は万葉線の経営は、そういう点でテストケースに、試金石になるべきだと思います。そして、こういう経営をすれば少なくとも現状がより悪くなることはない、大幅に改善されるかどうかはともかく、地域における公共交通機関に期待される多面的な機能は、こういう形で活用できるというモデルにこれからの万葉線はなって欲しいと思います。ですから、万葉線の問題は単なる万葉線、新湊と高岡を結ぶ12.8キロの路面電車の問題ではなく、越中富山における全公共交通機関、あるいは狭く限っても、鉄軌道による公共交通機関の1つの大きな試金石ではないだろうかと、私は位置付けています。 いろいろな角度で私なりの公共交通に関する印象をお話しましたが、街はやはり公共交通を軸として作られるべきです。街づくりがあって、街があって、公共交通ができる。全く新しい原っぱに、大荒野に新しい街を作るのならばそうかもしれません。しかし、既にこれだけの歴史があることを前提にして考えれば、白地にものを描くのではありませんから、公共交通の存在を前提にした街づくりを考えるべきです。そのためには、公共交通自体が持っている多面的な機能、極端に言えば教育啓蒙機能まで持つということを、誰が見ても最大限に活かしているという経営をするような経営主体を確立すべきです。そして、主体をサポートし、場合によっては厳しい叱責の声をあげるガバナンスのメカニズムにこれを支援させるべきです。そういう見通しがあれば、お金は付いてくると考えています。そういうことによって、その結果、おそらく公共交通が総合的に、相対的に、その地域の地域らしさというものを活かすことになってくるでしょう。


■ 高岡らしさを活かす
 ひとたびそうなれば、ある種の好循環が発生すると思います。高岡でも、例えば瑞龍寺というシンボルが再生したことによって、高岡の持つ印象、プレゼンスは非常に向上したと思います。おそらく次に伏木の勝興寺の再建が実現すれば、7〜8年後には本堂ができ上がるそうですが、またそれなりの高岡らしさが加わるでしょう。「らしさ」とは何かと言ったら、私は歴史だと思います。そういう点では、私は関東平野の小さな町に疎開し、小学校もその町の小学校に入ったわけですが、そういう歴史のない町に比べてみれば、高岡の歴史、富山の歴史は極めてうらやましいもので、もっと活かさなくてはいけないと思います。

 そういう高岡らしさ、歴史というものが、現在の公共交通の中に併存することによって、街の風景を融合させることになってくるだろうと思います。駅を降りても何もない。ビルが林立している。その向こうに瑞龍寺があり、しばらくバスに乗っていくと勝興寺があるというのではそうした風景は生まれてきません。せっかくの歴史的な資産、「らしさ」というものが死んでしまいます。

 冒頭にも申し上げましたが、公共交通機関、特に路面にへばりついてカタカタと走っていく路面電車や鉄道というのが、それぞれの地域の「らしさ」、文化、歴史の象徴を体現し、具現化しているものだということを忘れてはならないと思います。自家用車も「らしさ」はそれぞれお持ちでしょうが、それは例えば「松原さんらしさ」に止まるのであって、「高岡らしさ」には広がりません。その中間的な存在としてバスがありますが、悲しいことにバスには、このバスはどこを走っていたのだろうかという「らしさ」がないのです。もちろんいくつかの工夫はあります。ディズニーランドの中を走っているバスは、やはりディズニーランドらしいところがあります。そういう工夫をする余地はあると思いますが、一般論としてはある時は高岡にも走るし、井波の方にも伏木にも走ります。全然「らしさ」がなくて、場合によっては観光バスに仕立てられて遠くまで行ってしまいますから、バスそれ自体にはあまり「らしさ」はあまり期待できません。道路についても同じことだと思います。道路に「らしさ」を植え付けるのは大変でしょう。


結局、地面にへばりついて、そこから離れることができない路面電車や鉄軌道交通、鉄道というものが、「らしさ」を一番具体的に示すことのできる手段でしょう。単なる交通手段ではありません。いわば交通手段の継続の中にそのような「らしさ」が生まれてくるのです。こういうものを壊してはならないと思うし、壊してしまうならば、高岡も1つのまあまあ大きさのある、しかし、何の変哲もない街になってしまいます。それは残念だと思います。  ある程度のお金はかかります。年間1億円は超えないと思います。数千万円のオーダーで、6,000万円程度で済むと思いますが、それは高いのでしょうか、安いのでしょうか。私は安いと思います。もちろん、それに甘えてはいけません。それが無駄使いになっては困ります。今の状況のままでは無駄使いになる恐れなしとしません。しかし、ここで新しいタイプの第3セクターを、小さいながらもきちんと実現させることによって、後世に「1年間6,000万円のお金は大して無駄ではなかった」と言われるようにしなければならないし、そのための努力をしなければいけないでしょう。この経験が吉と出れば、おそらく城端線なり、氷見線なり、より大きな広い範囲に渡って、地域的な公共的存在のある鉄軌道資産のより良い運営が実現していくことになるのではないかと期待します。

 以上、私の申し上げたい点をほとんど申し上げました。おそらく皆さんにお叱りを被ったりすると思いますので、ご質問を受けたいと思います。ご清聴に感謝します。 (松原) 蝋山先生、大変ありがとうございました。新しいことにチャレンジし、ベンチャー精神をもって公共交通の多面的機能を活かすための具体的なご示唆があったと思います。ここで少し時間がありますので、ご質問を受けたいと思います。 (高橋) 先生のお話で、革新的な第3セクターというお話がありました。いわゆる声を出す市民、株主としての市民、経営に声を出す市民の存在が1つの要素と伺ったところです。この場合において公共、官の役割は、従来は公共性の付与ということだったと思いますが、新しい先生のイメージされている革新的な第3セクターにおいて、公共、官の役割はどのようなイメージになるのかを教えていただければと思います。 (蝋山) 第3セクターでの官の役割は、首長が社長になって銀行からの借り入れの時に、首長はそれほどお金持ちだとは思いませんが、首長が社長になっていると短期の資金でもお金を貸してくれるという役割です。極端に言えばそれ以外にはありません。 しかし、私はそれではまずいと思うのです。ですから、市や県が出資者となって、株主としてきちんと株主権の行使をするということが大事だと思います。そのためにも、社長は市長や知事といった首長でない方が良いのです。そして、株主としてきちんと声を出す、市民と株主としてきちんと声を出すということが必要です。株主総会をきちんとやるということです。これは第3セクターだからそういうことが言えるわけです。私は、具体的にそれほど詳しく第3セクターの経営を観察したことがありません。知っている範囲で言うと、らいちょうバレーは第3セクターですが、らいちょうバレーのスキー場としてのパフォーマンスは良くありません。一体市長をはじめ何人の株主の方が、らいちょうバレーのスキー場で滑ったことがおありでしょうか。やはりそれではまずいと思うのです。

 ですから、万葉線であれば、電車に乗る市民が最低5万円の株主になる。一株株主は大変イメージが悪いのですが、私は良いイメージに変えるべきだと思います。そういう中で官の役割とは、そういう株主の大株主としての役割があります。しかし、大株主が同時に経営者になると、ガバナンスのメカニズムが崩れてきます。そういう点で、きちんとした大株主のもとで期待を一身に担う雇われ経営者が経営者としての能力を発揮する、経営と資本の分離をされた方がよろしいのではないでしょうか。

 逆に言えば、設備資金は必要ないかと思いますが、そこに運転資金をお貸しになるところには、首長が株主で社長の第3セクターにはお金を出さないというくらいに言っていただいた方がうまくいくのではないか。しかし現実には逆で、首長が第3セクターの社長になっていると資金を融通します。そうでないと融通しません。私は、これは話が逆なのではないかと思います。余計なことまで申し上げましたが。 (松原) その他もう一点だけ質問などお受けしたいと思います。 (古田) 私にとっては非常に刺激のあるお話を承らせていただき、ありがとうございました。先生は外国なり日本国内を広くご覧になっておられると思います。公共、特に路面電車などで非常にうまくいっている事例なりをご存じかと思いますが、ご披露していただければありがたいと思います。 (蝋山) 路面電車そのものについてうまくいっている事例は、ヨーロッパのケースがいろいろ紹介されるのですが、私はフランクフルトなどいくつかの、あまり成功例の典型とは言えないところしか具体的に経験がありません。しかし、初めてアメリカで生活した時の話を申し上げたいと思います。

 先程から私のお話の中でお分かりのように、実は私は自動車が運転できないわけです。運転するのが怖くて仕様がありません。お金を出せばスピードのある、性能のいい自動車は買えますから、どうしても負けずぎらいなので、事故を起こすような自動車を買うことになるだろうということで、私は運転をしません。

 アメリカへ初めて行く時に、自分で自由に場所を選ぶことができたので、いくつかの条件を付けました。自動車を運転しなくても生活できることが第1の条件でした。その他の条件は、日本人があまりいない。しかし、日本に関心がある。そういう条件で選んだところが、シアトルでした。シアトルは今や、佐々木やイチローで有名になり、たくさんの日本人が住んでいるようです。マイクロソフトの本社もシアトルの郊外にあります。ですから、今ではシアトルは私の条件では第1の条件しか満たしていません。

 ともあれシアトルには、バスが便利でした。それも大学からダウンタウンまで2両連結の路線で、パーク・アンド・ライドの典型的な街でした。路面電車は走っていなくて、モノレールが1本あっただけですが、私はこれを利用しませんでした。非常にバスが便利で、24時間運行されていたし、ダウンタウンには自家用車の乗り入れ制限もあったので、非常にバスを多用しました。バスの乗り換えも、いわば乗り換え切符ということで、バスでダウンタウンで乗り換えて、また別のところへという形でも料金が同じでした。全く不自由がなくて、タクシーもほとんど利用しませんでしたので、公共交通の大切さを痛感したわけです。

 ぜいたくをして街から何十マイルも離れて、広大な山すそや湖畔に立派な家を持ちたい人には、自家用車は必須でしたが、ごく普通の生活をする私のような若くて貧乏な学者にとってみれば、大学の近くに住んでダウンタウンまで行くことはバスで十分でした。ですから、あのようなタイプのバスであればと思いますが、全く日本のバスとは違います。  一例だけ申し上げます。混んでくると、あれは後ろから入って前から出るバスでしたが、乗る人がたくさんいると、前からも人を乗せるし、真ん中のドアも開いて人を乗せます。そして、出る時もそうです。切符はどうするかというと、降りた人が道路から運転手の方に切符を出します。非常にバスらしい柔軟性を持っていました。日本のバスでそういうことをするバスはあるでしょうか。厳密に後ろから乗る場合には、乗る人は全部後ろから、降りる人は全部前からと決まっていて柔軟性がありません。これは電車の影響です。そういう点で、バスのバスらしさを十分に活かすことができるならば、バスもまた面白いかと思いますが、なかなか難しいでしょう。  古田代表幹事のご質問にうまく沿っているかどうか分かりませんが、そういう点で私はアメリカ人らしさ、柔軟性というものをバスの運行について感じました。 (松原) ちょうど時間もまいりました。これにて閉会します。ありがとうございました。

 

以 上



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