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ヨーロッパに生活してもう9年の歳月が経つ。新湊に帰って来て、万葉線を見るたび、また、遠くから電車の音や、踏み切りの音が聞こえると、30年ほどの昔、幼稚園の頃、毎週の様に「ちんちん電車」に乗って、高岡に連れていってもらった、おぼろげな子供の頃の記憶がよみがえってくる。
あの頃は、今の時代の様に、一家に車が2台、3台とあった時代ではなく、どこかに行くとなると、加越能電車かバスで異動するのが普通だった。それが時代の流れと共に、世の中のスピードが早くなってしまい、人はゆっくりと電車に乗って出かけることを忘れてしまった。都会などでは、電車は場所異動のみの手段と化し、ベルトコンベアーのごとく人を運びつづけている。
幼稚園に上がる前の僕にとっては、毎週の日曜日の「ちんちん電車」での高岡までの旅は、それはそれは大きな旅行だった。靴を脱いで、窓に向かってシートの上にひざまずき、子供にとっては、とても早いスピードで、窓からの景色が変わるのは、何物にもかえがたいロマンであった記憶がある。明るいお天道様の日曜日、春の匂いのする風が頬にあたったのを今でも覚えている。
大人になったら汽車の運転手になりたかった僕には、何か特別の思いがあったに違いない。あの頃は本当に電車を利用する人が多かった。あの頃の新湊は人口も多く、街にも人があふれていた。電車に乗れば必ず知った人がいて、挨拶したら最後、高岡までの小一時間が格好の井戸端会議場と化していた。今のようにインターネットがあるわけで無く、携帯電話やメールなんて物も無い時代には、貴重な情報源を手に入れる場所だったのだろう。なんと贅沢なゆっくりとした人間くさい時間だったのだろうと思う。
先日、高岡から新町口まで久しぶりに「万葉線」に乗った。電車の揺れは子供頃に味わったものに比べれば少しは少なくなったが、やはり、その揺れは僕の体に染み付いていた。懐かしくもあり嬉しくもあり、「そうそう、これこれ!」と微笑んでしまった。そうしているうちに、江尻から小さい子供の兄弟が、母親に送られて電車に乗りこんだ。どうやら二人っきりで中新湊までいくらしい。母親が運転手さんにお願いしているのが聞こえた。目のパッチリとした妹と、少々緊張気味の兄は、行儀良く腰掛け、心配そうに手を振るお母さんに、元気いっぱいに手を降り返している。彼らにとってはどうやら大きな冒険旅行の様である。僕はたまたま彼らの隣になったので、彼らの会話が聞き取れたが、お兄ちゃんはちゃんと妹に「心配無い、自分はちゃんと降りる所が判っていると」お兄ちゃんをしている。一駅一駅のアナウンスに、小さな耳に全神経を注ぎ間違いが無い様真剣である。しかし彼らの目は、一刻一刻写り変わる窓越しの景色にくぎ付けになっている。本当に澄んだ目をしていた。ふと、「自分も小さいときはこのような目をして物事を 眺めていたのかしら」と、なんだか今の自分を恥ずかしく思ってしまった。しっかりとつながれた小さな手と手。そのがっちりと握り合っている手を見て、「はて、自分はいつ、誰と、最後にがっしりと手をつないだだろう」と思うと、急に孤独感が全身を包み、天気も手伝ってか、なんだかセンチメンタルなってしまった。
どうやら幼いこの兄弟にとって、煙突の長さや、煙が空に描く絵、また、色々な看板の色形がとても気になるらしい。庄川の橋を越える時には、河口から広がる大きな海に自分の夢を託し、また、ずんずんと走り行く電車に、自分の将来を重ねていたに違いない。なぜなら僕がそうだったから。しかし、いつしか、色々なことを経験し、現実を知って行くうちに、煙突の煙も、ずんずん走り行く電車も、あたかもそれが当然の様になってしまった。毎週の日曜日、電車が停留所に到着。ドアが開き、ステップをやっとこさ親の手を借りてあがり座席に着く。「ビーッ」という音と共にドアが勢い良くしまり、あたかも自分が何か大きな事を成し遂げたような気持ちになって、ワクワクと電車に乗っていた小さい頃が本当に懐かしく思えた。アナウンスの声も昔から変わっていない。整理券をとったときの「チ〜ン!」と言う音も変わっていない。両替も昔ながらの運転手さんの手で行われる。千円札をくずして、もう一度百円をくずす。今のご時世、自動ですべて一度に両替されてしまうのに、「万葉線」では、まだ人と人との「触れ愛」があるようだ。
数年前に、母からの電話で、万葉線が廃止になるかもしれないと聞いたとき、これで新湊は"陸の孤島"になってしまうだろうと思った。また、その当時、富山新聞の紙面に、"ザルツブルグ紀行"という写真エッセイを掲載していたので、"万葉線の思いで"として、ヨーロッパの列車の旅に引っ掛けて、エッセイを書いたことがご縁で、高岡の「万葉線を守る会」の代表の方からご連絡をいただき、万葉線に応援のメッセージをと言うことで、オーストリアからFAXをしたこともあった。しかし、沢山の人々に支えられて、新しく「万葉線」が生まれ変わったことを聞き、本当にホッとした。故郷新湊の心配もそうであるが、なんだか自分の小さい頃の思い出がひとつ、かき消されるような気がして、心配だったのだろう。今年の夏の帰国の際、新聞で「万葉線に新車登場」との記事を読み、日々変わり行く時代を感じ、なぜか「荒城の月」の一節が思い出された。個人的には僕はあのオレンジと白の車体が好きだ。猫の絵がかかれていたり、コカコーラの宣伝の車両だったりと、色かえ様かえが好きだった。そう言えば、奈古中学校2年生の時、教室から、グランドの後ろを走る電車が良く見え、不得意な数学の時間に、走り行く「万葉線」を見ていて、先生に叱られた事も懐かしく思い出される。多分、多くの方も似たような思いではお持ちなのではないだろうか。そうこう思い出に浸っていたら、なんだか自分がその頃の様に帰ったようで、沢山の乗客、子供の騒ぎ声、冬の暖房の匂いがセピア色の映画のワンシーンの様に映った。
「次は新町口」。と言うアナウンスで現実に戻されて、僕は例の幼い兄弟をみた。妹の大きな目が、僕を不思議そうに眺めていたので、にっこり笑って、「次の次が中新湊やからね」って、話し掛けたら、ただ黙ってこっくりとうなずいた。僕が幼稚園の頃は、電車の中で知らない人が平気で話し掛けて来ていたけれど、今ではそう言うこともないのか、なんだか驚いた様子であった。
ブザーの音も昔のまま。財布には千円札しかないので、両替。運転手さんは初老の無口そうな方であったが、両替は例の如く「手動」。ジャラジャラって二回して、もう一回ジャラって音がして、両替完了。お金の投入口も、手動のレバーでお金をしまうのも昔のまま。
タラップを降りて、出発する万葉線を見送った。なんだか懐かしい思い出とのお別れのよ うな気がして、前に1歩踏み出したら、そこは大きな水溜りで、靴の中がびしょ濡れになった。ああ、これが現実の世の中なのだと思ったら、なんだかおかしくなってきて、一人で笑ってしまった。
雪のちらつく十二月のある一日のことだった。
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| JR高岡駅から万葉線に乗り換え40分。新湊に着く。ここはその昔、家人大伴家持が歌った「放生津」がある。その昔、「放生」が行われていた地であると聞く。立派なお城もあった、たいそう賑わった地であったそうだ。その面影を、今では、町名や小学校の名前にのみ、偲ぶことが出来る。
昔は海岸線は砂浜があり、海水浴なども一時期は出来たそうであるが、今ではコンクリートで海岸線は整備され、子供の頃に良く見ていた、海岸線の風景はまったくなくなってしまった。八幡神社のすぐ後ろまで波が押し寄せており、漁業を生業とした人々の信仰の場として、海が神聖視されていたことが伺われる。また、今の富山新港は、昔は「潟」で、弁天島があり、夏には屋形船を出し、花火を見た風情ある町であった。その「潟」と富山湾を結ぶ川が「内川」と呼ばれており、今も健在である。
この「内川」は、「潟」が出来たお陰で、流れがなくなった「川」になってしまった。この「内川」沿いも、子供の頃は、バタバタの砂利道で、舗装も何もなっていなかったが、今では立派な「遊歩道」に変身した。子供の頃の記憶によれば、「灯篭流し」も行われており、僕の水疱瘡の完治のお礼に、灯篭流しをした記憶が、頭の隅に残っている。今では、川の汚染の問題で、この日本風情が消えてしまったのが本当に口惜しい。その代わりに、この「内川」は沢山の芸術家によって、新たな一面を見せることになった。この「内川」には沢山の橋がかかっており、その橋を渡るだけでも楽しい。ある日、散歩をしていて、ふと、イタリアの水の都「ヴェニス」を髣髴させた。一本の川であるが、停泊中の漁船や、川沿いの民家が水面に移るのが本当に美しく、なんともいえない哀愁を誘う。日本でも数少ない、貴重な風景の一つとして大事にしたい「偲び」の場である。
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桐朋学園大学音楽学部演奏学科声楽専攻を主席で卒業。同大学研究科終了。同大学卒業演奏会、読売新人演奏会に出演。木村俊光氏に師事。在学中に「友愛ドイツ歌曲コンクール」入賞。1995年に新湊ロータリークラブの推薦を得て、国際ロータリー財団親善奨学生に抜擢され、オーストリア・ザルツブルグ「モーツァルテウム音楽院」、ザルツブルグ大学人文学部音楽学専攻に留学、ブルックナー音楽院オペラ科卒業。ルドルフ・クノール氏、トーマス・ケーベル氏、ルドルフ・ブルックベック氏、フェリックス・ディークマン氏、ハインツ・ツェドニック氏、コンラート・ライトナー氏に師事。在学中より「テアトロ・クラシコ・ザルツブルグ」と契約。1999年ドイツ・ハウツェンベルグ芸術週間において、モーツアルト作曲、歌劇「後宮からの逃走」の主役ベルモンテに抜擢され、ヨーロッパオペラデビュー。その後、ブレーメン・現代劇場でヨーロッパ再演の「帽子と自分の妻を間違えた男」(マイケル・ナイマン作曲)で主役ドクターSを演じ、ミュンヘンでの公演も好評を得る。リンツ州立劇場においては、世界初演のオペラ「子供が眠りたいから」の難役の"アリアンツ"役を歌い、新聞には異例の、単独の批評が掲載され、歌唱、演技ともに絶賛を受ける。その他、ウイーン・現代オペラ劇場、ルーマニア国立歌劇場、バード・ハル歌劇場など、ヨーロッパ各地の劇場、プロジェクトで活躍中。またコンサート歌手としては、リンツ・ブルックナーハウスで、シューベルトの夕べ、キリスト受難曲やオラトリオのソリスト、また現代物も得意としており、世界初演の歌曲、オペラの演奏依頼も多く、そのいくつかがCDになっている。また、2002年夏には、オーストリア、リンツ・ワーグナー協会から推薦を受け、ドイツ・バイロイト音楽祭の奨学生に抜擢され、「将来有望なワーグナーオペラのスペシャリスト」と評を受ける。ブルックナー音楽祭においては、ブリテン作曲、歌劇「放蕩息子」、翌年には、ストラデッラ作曲、バロックオペラ「サロメ」に出演し、好評を得る。また、ウイーン現代劇場での"アンドレス"役(ヴォツェック)と"市長"役(アルバート・へリング)の活躍が、「音楽の友」1月号、5月号に掲載される。2000年から2002年まで「下部オーストリア・声楽アカデミー」より招待を受け、声楽のマスターコースの講師を務めるなど、多方面で活躍中。また、2004年のウイーンの音楽祭に現代オペラで出演。
地元富山県新湊では、「あゆの風 であいの風」音楽祭を開催、「海王丸パーク第九夕涼みコンサート」ソリスト等に出演。富山オーバードホールで「億光年の響き」(飯沼信義作曲、新星日響、十束尚宏氏指揮)の初演のテノールソリストとして出演。新湊市市制50周年記念演奏会に、ウイーンの歌姫、シャルロッテ・ライトナー氏との共演など、地元の文化活動にも精力的に参加している。第一回新湊TOYP大賞受賞。
姫路、名古屋、東京にて、ウイーンフィルハーモニーのメンバーと共演のほか、故郷新湊でアンサンブル金沢とクリスマスコンサート(エリッヒ・ビンダー指揮)、ザルツブルグからの音楽使節「ガスタガー・ファミリーコンサート全国ツアー」等に出演。
オーストリア・オペラ団体「PROBERAUM」声楽コーチ。
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